2013年06月13日 (06:00)
俳優の尾関さんの出身地、駄知町で封切り
12日(水曜日)、
オムニバス映画「Father」の上映会が、
駄知町の駄知公民館で開かれた。






映画は、
30代の市原直監督・脚本による「ヴァージンロード」、
40代の杉山嘉一監督・脚本による「俺の屍を越えてゆけ」、
50代の月野木隆監督・脚本による「手を伸ばせば」の
3つのストーリーで構成し、リアルな「お父さん」を描いている。
「ヴァージンロード」は、岐阜市出身の桜木梨奈さんが、
「俺の屍を越えてゆけ」は、土岐市駄知町出身の俳優、
尾関伸嗣さん(33歳)が、主演を務めた。
また、「手を伸ばせば」は、土岐市駄知町で、
メーンロケを行った、“ご当地映画”になっている。
上映会は、駄知同友会(白石仲七会長)が主催し、
尾関さんの地元で、封切りとなった。
上映終了後には、拍手が沸き起こり、
月野木監督のほか、メーンキャストが登壇。
尾関さんは、
「同級生や、お世話になった人たちが、集まってくれて、
世界初となる上映が、駄知町でできたことを、
うれしく思う。18歳まで、駄知町に住んでいたが、
今では年に1回程度、どんぶりまつりの時ぐらいしか、
戻れない。しかし、帰れる家があることに感謝し、
生まれた町を、誇りにしたい」と、舞台あいさつをした。
映画の内容や、今後の上映スケジュールについては、
映画の公式サイトを、クリック。
「Father」の公式サイトへ。
「ヴァージンロード」は、結婚が決まり、戸籍を見たら、
実の父親ではなかったという、ドラマなどにありがちな設定。
しかし、この映画の魅力は、その設定にとどまらない。
一般的に結婚すれば、義理の父、義理の母という存在が、
急に出現し、新たな家族が形成される。
そこには、血のつながりはないわけで、
義理という言葉が付くにせよ、ある日を境に、
「父と子」「母と子」という関係が、生まれるわけだ。
では、今まで育ててもらった親が、あるいは育てた子が、
血がつながっていないという理由で、
ある日突然、「父と子」という関係が、
崩れ去るものだろうか。
なぜ題名が、「ヴァージンロード」なのか、
主人公の女性は、誰と歩くことになるのか、注目すべきだ。
もう一つは、主人公の仕事が、介護職という点だ。
介護という仕事が、家族の代わりを、果たせられるのかという、
監督からのメッセージが、あるような気がしてならない。
また、普通するであろう主人公が、結婚相手の男性に対して、
自分が養女だったことを告白、さらには相談する場面が、一切無く、
そのことが、親子関係だけではない、「父と娘」との間にある、
性別の違いも、際立たせていると感じた。






「俺の屍を越えてゆけ」は、
幼いころに亡くなった父親が、幽霊になって現れるという、
これもまた、映画の設定としては、珍しくない。
だが、この映画の面白さも、設定にあるのではない。
とにかく幽霊になった父親が、今で言う、“ウザい”のだ。
観客を、イラッとさせるような言動をとるわけだが、
よくよく見ていると、「そう言えば、自分が中学生のころ、
親父もあんな感じだったなぁ。ひとがまじめに取り組んでいるのに、
なぜか、ちゃかしてきたり、あおってきたりして、面倒だった」と、
思わずにはいられなかった。息子がいる父親なら、誰でも、
「こういうのが、男らしさだ」とか、
「男とは、こうあるべきだ」といったことを、教えたいのだが、
不器用と気恥ずかしさで、おかしなことになりがちだ。
映画では、アクションシーンで、
奇妙な親子げんかを描き、男同士の意地も表現。
ただ、アクションシーンと言っても、
スタントマンが必要なほど、危ない動作でもなく、
ワイヤロープで、空を飛ぶこともない。
逆に、泥臭いアクションシーンの連続だからこそ、
ひたすら真剣に、父親へ向かっていく、尾関さん演じる息子の姿と、
自分が中学生のころに、意味もなく、父親に対抗していた時の姿とを、
重ねてしまうのだ。
また、アクションシーンの合間に入る、
嫁と姑(しゅうとめ)との晩酌シーンが、
男同士の意地の張り合いを、冷ややかに見つめる女性陣として、
コミカルに映し出している。






「手を伸ばせば」は、製陶所も、東濃弁も、
知ってる人も、知ってる店も出て来る、
「ご当地映画」の決定版のような作品。
見どころの1つは、やはり3人の子どもたちが、
「そう言えば、おまえって、3人の中で、
親父に一番、かわいがられてたよな」などと、ねたみ合う場面だろう。
もう1つ挙げるなら、目が見えなくなった父親が、
子どもたちの“ある行動”などで、また見えるようになるところ。
普通なら、その時点で映画が終わっても、問題はないような気がする。
ところが、この映画では、その後も描かれている。
ありがちなホームドラマほど、印象深いシーンで終わり、
観客に余韻を残そうとしがちだ。
しかし、現実の家族や家庭というのは、この映画で言えば、
父親の目が見えないままだろうが、目が見えるようになろうが、
そんなことには関係なく、進んでいくわけだ。
最初から観客は、父親の目が見えなくなったり、見えたりしたのは、
病気が原因ではないことぐらい、分かっている。
さらに言えば、父親が不自由になるのは、目であって、
ほかの体の部分では、話が成り立たないことにも、気付いている。
この映画は、月野木監督が、
「幸せは、手を伸ばす範囲内にある」と、
舞台あいさつで語った言葉に、凝縮されている。
父親は、目が見えなくなったから、家族に手を伸ばした。
家族は、そんな姿を見たから、父親に手を伸ばした。
あなたは誰に対して、手を伸ばすだろう。
オムニバス映画「Father」の上映会が、
駄知町の駄知公民館で開かれた。






映画は、
30代の市原直監督・脚本による「ヴァージンロード」、
40代の杉山嘉一監督・脚本による「俺の屍を越えてゆけ」、
50代の月野木隆監督・脚本による「手を伸ばせば」の
3つのストーリーで構成し、リアルな「お父さん」を描いている。
「ヴァージンロード」は、岐阜市出身の桜木梨奈さんが、
「俺の屍を越えてゆけ」は、土岐市駄知町出身の俳優、
尾関伸嗣さん(33歳)が、主演を務めた。
また、「手を伸ばせば」は、土岐市駄知町で、
メーンロケを行った、“ご当地映画”になっている。
上映会は、駄知同友会(白石仲七会長)が主催し、
尾関さんの地元で、封切りとなった。
上映終了後には、拍手が沸き起こり、
月野木監督のほか、メーンキャストが登壇。
尾関さんは、
「同級生や、お世話になった人たちが、集まってくれて、
世界初となる上映が、駄知町でできたことを、
うれしく思う。18歳まで、駄知町に住んでいたが、
今では年に1回程度、どんぶりまつりの時ぐらいしか、
戻れない。しかし、帰れる家があることに感謝し、
生まれた町を、誇りにしたい」と、舞台あいさつをした。
映画の内容や、今後の上映スケジュールについては、
映画の公式サイトを、クリック。
「Father」の公式サイトへ。
「ヴァージンロード」は、結婚が決まり、戸籍を見たら、
実の父親ではなかったという、ドラマなどにありがちな設定。
しかし、この映画の魅力は、その設定にとどまらない。
一般的に結婚すれば、義理の父、義理の母という存在が、
急に出現し、新たな家族が形成される。
そこには、血のつながりはないわけで、
義理という言葉が付くにせよ、ある日を境に、
「父と子」「母と子」という関係が、生まれるわけだ。
では、今まで育ててもらった親が、あるいは育てた子が、
血がつながっていないという理由で、
ある日突然、「父と子」という関係が、
崩れ去るものだろうか。
なぜ題名が、「ヴァージンロード」なのか、
主人公の女性は、誰と歩くことになるのか、注目すべきだ。
もう一つは、主人公の仕事が、介護職という点だ。
介護という仕事が、家族の代わりを、果たせられるのかという、
監督からのメッセージが、あるような気がしてならない。
また、普通するであろう主人公が、結婚相手の男性に対して、
自分が養女だったことを告白、さらには相談する場面が、一切無く、
そのことが、親子関係だけではない、「父と娘」との間にある、
性別の違いも、際立たせていると感じた。






「俺の屍を越えてゆけ」は、
幼いころに亡くなった父親が、幽霊になって現れるという、
これもまた、映画の設定としては、珍しくない。
だが、この映画の面白さも、設定にあるのではない。
とにかく幽霊になった父親が、今で言う、“ウザい”のだ。
観客を、イラッとさせるような言動をとるわけだが、
よくよく見ていると、「そう言えば、自分が中学生のころ、
親父もあんな感じだったなぁ。ひとがまじめに取り組んでいるのに、
なぜか、ちゃかしてきたり、あおってきたりして、面倒だった」と、
思わずにはいられなかった。息子がいる父親なら、誰でも、
「こういうのが、男らしさだ」とか、
「男とは、こうあるべきだ」といったことを、教えたいのだが、
不器用と気恥ずかしさで、おかしなことになりがちだ。
映画では、アクションシーンで、
奇妙な親子げんかを描き、男同士の意地も表現。
ただ、アクションシーンと言っても、
スタントマンが必要なほど、危ない動作でもなく、
ワイヤロープで、空を飛ぶこともない。
逆に、泥臭いアクションシーンの連続だからこそ、
ひたすら真剣に、父親へ向かっていく、尾関さん演じる息子の姿と、
自分が中学生のころに、意味もなく、父親に対抗していた時の姿とを、
重ねてしまうのだ。
また、アクションシーンの合間に入る、
嫁と姑(しゅうとめ)との晩酌シーンが、
男同士の意地の張り合いを、冷ややかに見つめる女性陣として、
コミカルに映し出している。






「手を伸ばせば」は、製陶所も、東濃弁も、
知ってる人も、知ってる店も出て来る、
「ご当地映画」の決定版のような作品。
見どころの1つは、やはり3人の子どもたちが、
「そう言えば、おまえって、3人の中で、
親父に一番、かわいがられてたよな」などと、ねたみ合う場面だろう。
もう1つ挙げるなら、目が見えなくなった父親が、
子どもたちの“ある行動”などで、また見えるようになるところ。
普通なら、その時点で映画が終わっても、問題はないような気がする。
ところが、この映画では、その後も描かれている。
ありがちなホームドラマほど、印象深いシーンで終わり、
観客に余韻を残そうとしがちだ。
しかし、現実の家族や家庭というのは、この映画で言えば、
父親の目が見えないままだろうが、目が見えるようになろうが、
そんなことには関係なく、進んでいくわけだ。
最初から観客は、父親の目が見えなくなったり、見えたりしたのは、
病気が原因ではないことぐらい、分かっている。
さらに言えば、父親が不自由になるのは、目であって、
ほかの体の部分では、話が成り立たないことにも、気付いている。
この映画は、月野木監督が、
「幸せは、手を伸ばす範囲内にある」と、
舞台あいさつで語った言葉に、凝縮されている。
父親は、目が見えなくなったから、家族に手を伸ばした。
家族は、そんな姿を見たから、父親に手を伸ばした。
あなたは誰に対して、手を伸ばすだろう。
