2022年09月19日 (14:12)
美濃源氏フォーラムが土岐光行の供養祭【菩提寺の永松寺で初開催】
鎌倉時代の武士・土岐光行
《?~1249年9月19日(旧暦)・
ときみつゆき》が開基し、
菩提(ぼだい)寺となっている、
臨済宗妙心寺派「吟鶴山・永松寺」
《えいしょうじ・土岐市肥田町浅野・
竪山裕善住職(たてやまゆうぜん)》で、
本日、9月19日(月曜日・敬老の日)に、
「浅野館土岐光行供養祭」が営まれた。






土岐光行の供養祭は、美濃源氏フォーラム
(井澤康樹理事長)が、初めて開催。
土岐光行は、美濃源氏土岐一族の祖・
土岐光衡(ときみつひら)の長男で、
弟は土岐光時(ときみつとき)とされる。






美濃源氏フォーラムでは、過去、
承久3(1221)年に起きた、
「承久の乱」(じょうきゅうのらん)について、
兄・光行が朝廷側(後鳥羽上皇)を、
弟・光時が幕府側(北条義時)を、
それぞれ味方したと、考えてきた。
しかし、谷口研語氏や西尾好司氏らの説を受けて、
3年前からは逆に、
兄・光行が幕府側(北条義時)に、
弟・光時が朝廷側(後鳥羽上皇)に、
付いたと考えている。






供養祭には、井澤康樹理事長をはじめ、
美濃源氏フォーラムのメンバー、6人が参列。
竪山裕善住職が読経する中、焼香し、
光行が活躍した時代に思いをはせた。
供養祭が終わると、土岐光行の墓を訪問。
線香をあげ、手を合わせた。






なお、光行の墓は、永松寺の駐車場より、
50メートルほど先、
住宅に挟まれた一角にある。
ただし、駐車場からの「案内看板」や、
光行の墓とする「説明看板」などは無く、
吾妻鏡に出て来る「土岐左衛門尉」の足跡は、
地元の土岐市から、消えようとしている。
《?~1249年9月19日(旧暦)・
ときみつゆき》が開基し、
菩提(ぼだい)寺となっている、
臨済宗妙心寺派「吟鶴山・永松寺」
《えいしょうじ・土岐市肥田町浅野・
竪山裕善住職(たてやまゆうぜん)》で、
本日、9月19日(月曜日・敬老の日)に、
「浅野館土岐光行供養祭」が営まれた。






土岐光行の供養祭は、美濃源氏フォーラム
(井澤康樹理事長)が、初めて開催。
土岐光行は、美濃源氏土岐一族の祖・
土岐光衡(ときみつひら)の長男で、
弟は土岐光時(ときみつとき)とされる。






美濃源氏フォーラムでは、過去、
承久3(1221)年に起きた、
「承久の乱」(じょうきゅうのらん)について、
兄・光行が朝廷側(後鳥羽上皇)を、
弟・光時が幕府側(北条義時)を、
それぞれ味方したと、考えてきた。
しかし、谷口研語氏や西尾好司氏らの説を受けて、
3年前からは逆に、
兄・光行が幕府側(北条義時)に、
弟・光時が朝廷側(後鳥羽上皇)に、
付いたと考えている。






供養祭には、井澤康樹理事長をはじめ、
美濃源氏フォーラムのメンバー、6人が参列。
竪山裕善住職が読経する中、焼香し、
光行が活躍した時代に思いをはせた。
供養祭が終わると、土岐光行の墓を訪問。
線香をあげ、手を合わせた。






なお、光行の墓は、永松寺の駐車場より、
50メートルほど先、
住宅に挟まれた一角にある。
ただし、駐車場からの「案内看板」や、
光行の墓とする「説明看板」などは無く、
吾妻鏡に出て来る「土岐左衛門尉」の足跡は、
地元の土岐市から、消えようとしている。
