2020年10月31日 (23:22)
山五陶業とGSPの栄枯盛衰を【瑞浪市陶磁資料館で特別展】
特別展「煌めきの洋食器
山五陶業とGOLDEN STATE PORCELAIN」が、
本日、10月31日(土曜日)から、
瑞浪市陶磁資料館(明世町山野内)で始まった。
会期は令和3(2021)年2月28日(日曜日)まで。



陶磁器メーカーの山五陶業株式会社は、
明治5(1872)年に、伊藤五郎衛門が、
恵那郡猿爪村(現在の瑞浪市陶町猿爪)で、
「山五製陶所」を創業したのが始まり。
昭和13(1938)年に、
高級洋食器「ディナーセット」の生産を開始し、
アメリカへ輸出すると、好評を博した。
昭和26(1951)年1月には、
山五陶業株式会社に改組(かいそ)した。






昭和30(1955)年代の前半は、
窯業界全体が盛況を迎え、山五陶業においても、
第2号トンネル窯の増設・第2工場の新設など、
生産力の増強を図った。
しかし、昭和30(1955)年代の後半には、
アメリカの景気後退が始まり、さらに米国が、
ベトナム戦争(1960~1975年)に介入すると、
経済への影響は、深刻なものになった。
共働きの世帯が増え、生活スタイルが大きく変化。
ホームパーティーが衰退したことで、
ディナーセットの販売も減少していった。






1980年代以降、
米国の最高級食器メーカー「レノックス」や、
英国の老舗陶磁器メーカー「ウェッジウッド」、
仏国の名門陶磁器メーカー「ベルナルド」などが、
買収・統合・縮小といった憂き目に遭い、勢いを喪失。
また、昭和61(1986)年には、米国のカリフォルニア州で、
上絵具から溶出する鉛毒などに対して、厳しい規制
「PROP.65」(プロポジション65)が施行され、
世界の陶磁器食器メーカーは苦境に陥った。






日本の陶磁器メーカーも追い込まれたが、山五陶業では、
①円高の進行により、
労働集約的な輸出陶磁器産業の基盤が弱体化したこと。
②米国市場での鉛毒規制が厳しくなったこと。
③昭和58(1983)年に建設した、第5工場を維持するため、
新たな販路の開拓が必要になったこと。
などから、
山五陶業で生産した白素地(白色度の高い素地)を、
米国に輸出し、米国内で絵付けを行い、その完成品を、
全米やカナダ市場などで、販売することにした。






海外生産に踏み切った背景には、
白素地は完成品に比べ、関税が低いという利点もあった。
また、山五陶業では、鉛毒問題を解決するため、
下絵製品のように耐摩耗性に優れながら、
上絵製品のように顔料の有害物質が溶け出さない絵付け技法
「イングレーズ」に着目。
ただ、当初のイングレーズは、
焼成温度が約1300度と高温のため、高コストで、
かつ、上絵製品ほどの発色が得られなかったので、
染め付け風の単色絵付けで終わっていた。
そこで、さまざまな実験を行い、焼成温度を、
1200度程度にまで、下げることに成功。
発色も、上絵製品と遜色(そんしょく)がない、
多色絵付けのイングレーズ製品を、
生産できる強みを持っていたことにもある。






山五陶業(株)・(株)ニチメン・
(有)前川商会の3社が共同出資し、
平成4(1992)年9月28日に、
米国カリフォルニア州サンタマリアで開業したのが、
「GOLDEN STATE PORCELAIN」
(ゴールデンステートポーセレン。
以下、GSP。通称=アメリカヤマゴ)。
GSPの絵付け工場では、ティファニーやウェッジウッド、
ロイヤルアルバートなどの委託生産を行い、
ディナーセットや額皿(コレクターズプレート)を焼成した。






GSPの開業時は、受注が殺到し、
ロケットスタートを切ることができたが、
平成7(1995)年7月になると、市場に不況感が浸透。
平成13(2001)年に、中国がWTOに加盟すると、
安価な陶磁器食器が、世界の市場に流れ込んだ。
平成14(2002)年1月、
山五陶業は、従業員のリストラに着手。
平成15(2003)年12月に、
山五陶業は倒産し、GSPも閉業に至った。






昨年度、平成31/令和元(2019)年度には、
GSPの元社長・奥勇さん(おくいさむ・76歳)が、
個人的に倉庫にしまっていたGSPの製品、
約900点を瑞浪市に寄贈。
今回の特別展は、これを受けたもので、会期中、
入れ替えを行いながら、うち300点を展示する。



【私見】
明治から平成まで、4つの時代を駆けた山五陶業。
令和に入り、再びその製品に、光が当たった。
究極の白い器に絵付けされた洋食器には、
瑞浪から世界を相手にした企業の気概が見て取れる。
しかし、130年余り続いた山五も、
アメリカへ打って出たGSPも、今はない。
色鮮やかな食器のきらめきが、
かえって一抹の寂しさを感じさせる。

山五陶業とGOLDEN STATE PORCELAIN」が、
本日、10月31日(土曜日)から、
瑞浪市陶磁資料館(明世町山野内)で始まった。
会期は令和3(2021)年2月28日(日曜日)まで。



陶磁器メーカーの山五陶業株式会社は、
明治5(1872)年に、伊藤五郎衛門が、
恵那郡猿爪村(現在の瑞浪市陶町猿爪)で、
「山五製陶所」を創業したのが始まり。
昭和13(1938)年に、
高級洋食器「ディナーセット」の生産を開始し、
アメリカへ輸出すると、好評を博した。
昭和26(1951)年1月には、
山五陶業株式会社に改組(かいそ)した。






昭和30(1955)年代の前半は、
窯業界全体が盛況を迎え、山五陶業においても、
第2号トンネル窯の増設・第2工場の新設など、
生産力の増強を図った。
しかし、昭和30(1955)年代の後半には、
アメリカの景気後退が始まり、さらに米国が、
ベトナム戦争(1960~1975年)に介入すると、
経済への影響は、深刻なものになった。
共働きの世帯が増え、生活スタイルが大きく変化。
ホームパーティーが衰退したことで、
ディナーセットの販売も減少していった。






1980年代以降、
米国の最高級食器メーカー「レノックス」や、
英国の老舗陶磁器メーカー「ウェッジウッド」、
仏国の名門陶磁器メーカー「ベルナルド」などが、
買収・統合・縮小といった憂き目に遭い、勢いを喪失。
また、昭和61(1986)年には、米国のカリフォルニア州で、
上絵具から溶出する鉛毒などに対して、厳しい規制
「PROP.65」(プロポジション65)が施行され、
世界の陶磁器食器メーカーは苦境に陥った。






日本の陶磁器メーカーも追い込まれたが、山五陶業では、
①円高の進行により、
労働集約的な輸出陶磁器産業の基盤が弱体化したこと。
②米国市場での鉛毒規制が厳しくなったこと。
③昭和58(1983)年に建設した、第5工場を維持するため、
新たな販路の開拓が必要になったこと。
などから、
山五陶業で生産した白素地(白色度の高い素地)を、
米国に輸出し、米国内で絵付けを行い、その完成品を、
全米やカナダ市場などで、販売することにした。






海外生産に踏み切った背景には、
白素地は完成品に比べ、関税が低いという利点もあった。
また、山五陶業では、鉛毒問題を解決するため、
下絵製品のように耐摩耗性に優れながら、
上絵製品のように顔料の有害物質が溶け出さない絵付け技法
「イングレーズ」に着目。
ただ、当初のイングレーズは、
焼成温度が約1300度と高温のため、高コストで、
かつ、上絵製品ほどの発色が得られなかったので、
染め付け風の単色絵付けで終わっていた。
そこで、さまざまな実験を行い、焼成温度を、
1200度程度にまで、下げることに成功。
発色も、上絵製品と遜色(そんしょく)がない、
多色絵付けのイングレーズ製品を、
生産できる強みを持っていたことにもある。






山五陶業(株)・(株)ニチメン・
(有)前川商会の3社が共同出資し、
平成4(1992)年9月28日に、
米国カリフォルニア州サンタマリアで開業したのが、
「GOLDEN STATE PORCELAIN」
(ゴールデンステートポーセレン。
以下、GSP。通称=アメリカヤマゴ)。
GSPの絵付け工場では、ティファニーやウェッジウッド、
ロイヤルアルバートなどの委託生産を行い、
ディナーセットや額皿(コレクターズプレート)を焼成した。






GSPの開業時は、受注が殺到し、
ロケットスタートを切ることができたが、
平成7(1995)年7月になると、市場に不況感が浸透。
平成13(2001)年に、中国がWTOに加盟すると、
安価な陶磁器食器が、世界の市場に流れ込んだ。
平成14(2002)年1月、
山五陶業は、従業員のリストラに着手。
平成15(2003)年12月に、
山五陶業は倒産し、GSPも閉業に至った。






昨年度、平成31/令和元(2019)年度には、
GSPの元社長・奥勇さん(おくいさむ・76歳)が、
個人的に倉庫にしまっていたGSPの製品、
約900点を瑞浪市に寄贈。
今回の特別展は、これを受けたもので、会期中、
入れ替えを行いながら、うち300点を展示する。



【私見】
明治から平成まで、4つの時代を駆けた山五陶業。
令和に入り、再びその製品に、光が当たった。
究極の白い器に絵付けされた洋食器には、
瑞浪から世界を相手にした企業の気概が見て取れる。
しかし、130年余り続いた山五も、
アメリカへ打って出たGSPも、今はない。
色鮮やかな食器のきらめきが、
かえって一抹の寂しさを感じさせる。

